11/24 日記 解像度下がり期をやり切る
11/24 木曜日
ひさしぶり~。
大きな仕事(?)が控えていて、こんな風に書いてる余裕はないはずだけれど、突発的に書きたくなったから書きます。
感情がすごくブレがちな最近。もうだめだ……と思った2時間後にはうおおおおうちはなんだってできるぞ!!という具合。それを繰り返している。
他人の発言にめちゃくちゃ振り回される。いい意味でも悪い意味でも。
4時に寝る日と4時に起きる日を繰り返している。
食事・睡眠・風呂のすべてがおろそかになっている。
今週末をどうやって乗り切ろうか不安しかないが、想像以上に不安を感じられない自分もいて、それが逆に怖い。
まあなんとかなるだろう、と思えてしまう自分が怖い。大丈夫か?
何をもって大丈夫とするのか、という問題ではあるが。
感情がいつもよりぼんやりとしている。いつもの自分であれば「やばいやばい!!」となるようなことが、「あ、やばいな……」くらいの感じ。凪いでいる?
一時的なものだとは思うけれど。
だからこそ物事の優先順位がうまく決められなくて、やるべきことを後回しにしてやりたいこと(編み物とか……)をしたり、虚無時間を過ごしたり……。
世界の解像度がぐいーんと下がっていて、ちょっと恐ろしくなったりしたのでした。
諸々終わって来週、いや再来週から真剣に進路考えよう。
今のところ、院進が優勢です。なんでこんなことに……。
10/4 日記 自分ひとりの部屋が欲しい
10/4 火曜日
昨日、ヴァージニア・ウルフ「自分ひとりの部屋」を読み切った。
読み途中に書いた日記はこちら↓
たおやかで力強い文章とはこういうものを言うのだろうなと思った(これは邦訳の力もあるか?)。100年前に書かれたものであることの希望と絶望。わたしたち、何か変えられたのかな。変えた、変えてくれたのは確実なのだろうけれど、今の世界は、ウルフが願っていた世界なのかな。わたしたちは詩人になれるでしょうか?
絶対にヴァージニア・ウルフ作品を読破しようと思った。1年生のときに取った文学の授業で「壁のしみ」は読んだのだけれど……。そのときはあまり面白さがよくわからなくて(「意識の流れ」自体はとても好きで面白いと思ったけど)、ウルフの生い立ちばかりに目を向けていました。今もそう変わらない気はする。それでも、また違った目線で読めるのではと思う。わたし、2年でそれなりに成長しました。あの時に知らなかったこと、今はもっともっと知っている。まだまだ知らないことばかりであることも分かっている。だからこそ、今なら彼女の本をもっと楽しめると思う。
そして、ブロンテ姉妹と、ジェイン・オースティン作品も絶対に読もうと誓いました。名は知っていても読んだことはないのだ。きっかけをくれてありがとう。文学部棟行きてえな……。どうして文学部に進学しなかったのだろうと、最近また思うようになったけれど、どうせわたしがやるのは文学研究といいつつそれは社会学研究なのでしょう。とにかく、全てのきっかけをくれたSEX EDUCATIONのメイヴに感謝。S4楽しみ! あなたはアメリカでどう過ごしているの。自分ひとりの部屋は手に入れた? 何を考え、何を書き暮らしているのだろう。
わたしも自分ひとりの部屋が欲しい。こういう日記とか散文とか小説のなりそこないとかは、大抵学校の図書館とか自習室とかカフェとか家族が寝静まった夜とかに書いています。ひとりで落ち着いて安心できる場所、作りたいが難しそう。大学を卒業したら得られるだろうか。そのためにはやっぱり東京をもう一度目指すのがいいのか。いっそ海外に行ってしまうか(どっちにしろ金……。そしてわたしのスキルと学力、英語力……。何もかも絶望的です。この2年半なにやってたんだろうね。必死に生きてはいた)。
すごく好きだった節を置いておくね。
一八二八年に冷笑とか叱責とか賞を授けてやろうという約束とか、そのすべてを無視できるとしたら、それはとても猛々しい若い女でなくてはならなかったでしょう。ちょっとした過激派になって、こう考えねばならなかったに違いありません。そうね、でもあのひとたちに文学は買収できない。文学はあらゆる人びとに開かれている。あなたが典礼係だとしても、芝生から追い出されるのはお断り。そうしたいなら図書館全部に鍵をかけてもかまわないけれど、わたしの精神の自由に、あなたが扉も鍵も閂も取り付けることなんてできやしない。-p132
彼女に自分ひとりの部屋と五百ポンドをあげよう。心にあることを語ってもらい、いま本に詰め込んでいることの半分を除いてもらおう。そうすれば、いつかもっと良い本が書けるはず。メアリー・カーマイクル作『人生の冒険』を本棚の端に戻しつつ、わたしは言いました――あと百年経てば、彼女は詩人になるでしょう。-p164
評価を下すのは楽しい時間潰しかもしれませんが、あらゆる時間潰しの中でもいちばん無益なものであり、評価者たちの<こうすべし>に屈するとしたら、それは最低の卑しむべき態度です。自分が書きたいことを書く、それがすべてです。-p183
過去の優れたひとたち、たとえばサッフォーとか紫式部とかエミリー・ブロンテのことを考えれば、彼女たちは創始者であると同時に後継者でもあって、それ以前の女性が自然な書き方をするようになっていたからこそ、出現したのだとわかります。-p189
新学期が始まって、まあまあ疲れているけれど、うまくバランスを取って乗り切りたい。勉強も生活も頑張りたい。もしかして留学に行ける説が出てきたけれど、うまくいくのだろうか……。
9/28日記 呼吸
9/28日記
9月が終わります。
久々にお休みをゲットできたので、1日ゆっくりしつつ、少し出かけたりした。
行きたいところに行けるのは嬉しい。明日もお出かけする。楽しみ。
後期の授業のことを考え始めている。もう卒業単位については気にしなくてもよくなったため(やったー!)、あとは資格用科目を取り切るだけ! えらいぞ。
だからこそ、やる気が微妙になったりするので、英語とか、最近一番興味のあるD&Iに関する授業を追加することにした。それでもかなり履修数が少ない(当社比)ので、ちょっと不安になったりするけれど、空いた時間を有効に使って、部活の練習したり、仕事をしたり、本を読んだり書いたり、勉強したりしたい。朝を有効活用できる人間になりたい。頑張ろうとは思ってるんやけど。そう上手くいった試しはないよな。
ようやく夏休みらしい夏休みが得られて、映画館や美術館や博物館に行くことが増えた。やっぱり欲してたんやなあ。芸術に触れることは、わたしにとって呼吸みたいなもので、水の中に長くいられる哺乳類が時々水面に顔を出して息をするように、この世界で「芸術」だとされるものを見て、聞いて、感じてなんとか生きているように感じる。ただこの社会で生きているだけで、息苦しくてしかたがないので、時には大きな呼吸が必要。新学期に向けて、栄養を蓄えている最中。
やっぱりこういうこと(=芸術系?)を仕事にするのが幸せなのだろうか、それはそれで、趣味と仕事の境界が分からなくなって、息苦しくなったりしないかな。いまは、一番D&Iに興味が向いているので、いろいろ調べたい。とりあえず、大学の就活相談窓口には10月中に絶対に行こう。
のんびり頑張ろう。
9/24日記 お久しぶりです。
9/24 土曜日
お久しぶりです。実習とか試合とか色々落ち着いたので、ようやくブログを再開できました。
いまは、スタバで新作の焼き芋フラペチーノを飲みながら、わたしの大好きな作家先生のスペースを聞きながら、これを書いています。
どったんばったんしていて、なかなか大変な2週間でした。でもどうにかなった。どうにかなったよ~~~~~!
いつも本当に頑張っていてえらいなあと思う(自分ほめタイム)。
最近はヴァージニア・ウルフの「自分ひとりの部屋」を少しずつ読み進めていて、心身の栄養を充分に補給できているような感じです。名著だね。100年前の話とは思えなくて、色んな意味で泣いている。
セックス・エデュケーションを全シーズン観終わったので、メイヴが読んでいた本に手を出そうかなと思って。まずはウルフを。メイヴが好きすぎてどうしようかと思った。あの小さな家を、小さな町を抜け出した彼女はどこへ向かっていくのかな。わたしも自分だけのもの(知性)を手に入れて(きっともうとっくに手に入れてはいるのだけれど、もっと)、ここではないどこかへ行きたい。
今、わたしの好きな作家が
Tomorrow is another day.
の
とりあえず寝よう。
という意訳が好き、という話をしていました。夏休み、残りも楽しみつつ頑張ろう。
とりあえず寝よう。
9/9日記 くたばれ家父長制
9/9 金曜日
美しいものが好きだ。
服が好きだし(これは日常的に着る洋服もそうだけれど、どちらかというとドレスやスーツ、着物ほか沢山の「衣装」を指す)、宝石もアクセサリーも好きだし、美術作品も好きだ。
だから、美術館や博物館に行くことが好きだ。
好きが高じて、学芸員資格を取ろうとしたりしている。
そこでどうしても考えてしまう。植民地支配の遺構である面を。
ミュージアムに関わりたい、と考えている人間は皆認識しておくべきだと思っている。今のところ大学でこの系統の授業は受けられていないので、はやく受けたいんだけど。美しいものに囲まれた空間を楽しむのと同時に、支配の歴史を、略奪の歴史を、差別の歴史を、格差の歴史を考えないときはない。
そういうことに自覚的な、ミュージアム好きでありたい。いつか、ヨーロッパやアメリカのミュージアムに行くことができたら、わたしは何を思うのだろうか。楽しみにしながら、わたしは学び続ける。
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いのちの価値に差をつける社会のしくみは絶対に変わっていくべきだし、家父長制ときつく結びついた世襲制は無くなっていくべきだと思っている(わたしが大好きな美術作品たちはこの仕組みにより守られてきたものも多いはずだから、悔しいのだけれど)。
これは、わたしが世襲の仕事をしている一家の下に生まれたことも大きい。
生まれたときから人生が決まっているなんて、そんな息苦しいことがあるだろうか。わたしは自由を愛しているし、自分の人生は自分で選びたい。
家父長制も世襲制も内面化していた小学生の頃の認識のまま、成長していたら、こんなに苦しくはなかった? いや、苦しむことができている今の方がよほど幸せだ。わたしにとって無知こそが最も恐ろしく、避けたいことだ。
離れたらいいじゃない。
離れたら、責任を、きょうだいに、それもたった一人男性である弟に押し付けて、逃げることになるのでは、という認識が消えない。
まだまだ向き合うべきことがある。
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家に帰ったら、たまたま「ドキュランドへようこそ・スタートライン カミングアウトするアスリートたち」をやっていたので見た。
家族がいる場で思いっきり見た。
わたしの家族(両親)はかなりリベラルな方だと思っているのだけれど、時々びっくりするくらい前時代的な考えを表出するから、そのギャップがちょっと苦しかったりする。
ちなみに、うちの母はカミングアウトに結構否定的だ。
どうして公開する必要があるのかわからないらしい(多分、性的指向と性的嗜好を勘違いしているんだと思う。びびって説明できた試しがない)。セクシュアルマイノリティの権利運動にも懐疑的で(やるべきなのは分かるんだけど……と言ってはいた)、とにかく、なぜ自分がゲイだって言う必要があるのかわからないみたい。自分は毎日堂々とシスヘテロであることを公開し続けているのに??
(ちなみに母は恋愛や結婚に興味をもったのがかなり遅かったらしく、当時としては結婚年齢が割と高い。それはそれで居心地のよいものではなかったみたいだけれど。恋愛感情はホルモンの関係が大きくいずれ湧くものだと思っている。それはつまりAroAceの存在を認めていないということで、ひとりのAスペクトラムの人間として、カミングアウトのつもりで「恋せぬふたり」を家族の前で泣きながら観ていたのに、ああ何も伝わってないのだろうか、というショックが強い。ドキュメンタリー中に「ユース世代に力を与えたいから公表した」と言う選手が何人か出てきたけど、その意味、伝わっていたかな……。)
ドキュメンタリーを見ていたら、母は唐突に「なんで自分が同性愛者やってわかるんやろう」と言った。
じゃあなんであんたは自分が異性愛者であるってわかったの。
Twitterのクソ発言を見ているときは、反射的にそう言えるのに、いざ目の前で言われると、さあっと血の気が引いて、しばらく言い返せなかった。
「じゃあ、なんであなたは、自分が、異性愛者ってわかったんか、っていう」みたいなことを半笑いで言うしかできなかった。
あなたの目の前にいますよ、”非”異性愛者は。
いずれカミングアウトできるかなあと思ってたのになあ。何か決定的なことが起きない限り(同性の人と生きていくことを決めた…など)、伝える気が失せた。
自分”やおい”は楽しむくせに。消費だけして。
わたしが、わたしの大好きな作家たちがBLに何を託してきたか、知る由もないんでしょうね。
とても倫理観のある人で本当に有難いと思うし、だからこそ絶望的な気持ちになったりするんだよ(根っからの差別主義者って訳ではないから助かった。きっとわたしがカムアウトすればアライになってくれるだろうけれど、自分の身の回りにいるんだという認識があまりにも欠けてると思う)。
ブログ用意していてよかった。こういうときになんとか言葉にできることをまとめられる。そして自分の言葉を読んでくれる人がいる(アクセス解析できる仕組みがすごく面白い。負担になるかなと思ったけれど、今のところ楽しめています)。それがどれだけ支えになっているか。わたしたち支え合ってサバイブしてこうね。家父長制もホモフォビアもレイシズムもくたばれ!!
9/8日記 格差社会を生きる
9/8 木曜日
突然だけど、わたしは非課税世帯の人間だ。
非課税世帯にもいろいろあって、一見経済的に困難を抱えていないようでも、扶養家族が多かったり、支出が一時的にとても増えたりすると、非課税になるみたい。わたしたち一家は数年前からそうだ(わたしが幼かった頃にも一時期そうだったらしい)。
余裕がある家庭だと思ったことはないけれど、貧しいと思ったこともない。習い事をいろいろさせてもらったし、通信教育も受けさせてもらったし、本も買ってもらったし、休みの日には遊びに連れて行ってもらった。でも私立を第一志望にする選択肢はなかったし、一人暮らしはもっての他だし、塾に行くことは考えなかったし、自室なんてものはないし、みんながもっているゲーム機を何一つ持っていなかったし、有名なテーマパークには行った事がなかったし、みんなが話してるエンタメの話は何一つ分からなかった(これは親の教育方針も多いにあるので一概には言えません。第1子のわたしと、きょうだいたちとでもまた違います)。そういえば家の色々な箇所が壊れても、数年間ほったらかしにしてたな。
要介護のばあちゃんへの支援も含めて、思ったより国の保障ってちゃんとしてるんやん、、と思いつつ、その限定的な支援に狡さを感じたり。
ただただ日々を懸命に生きている人に対して、世間って冷たいな……とTwitterを見てて思ってしまった。非課税世帯には今度5万円給付されるらしい。一部の世帯に現金を配って、それが何かの根本的な解決になるとは到底思えないけれど、それを批判するために「働いていない人/外国人/老人に金を渡すな」なんて言うのは違う。絶対に違う。
わたしは昨日その報道と、それに伴うネットの反応を見て、久々にキレてしまった。舐めてんじゃねえぞ政府も世間様も。役に立つ人間・立たない人間を勝手に選別するな。働いていなくても生きていく権利があるし、どんな仕事にだって就く権利があるし、外国籍でも安心してここで暮らす権利があんだよ。そして年収だけでは計れない苦しさがあんだよ。
わたしは恵まれている。それは確か。家があり、養ってくれる家族がおり、飯も満足に食えるし、教育も受けられている。それには本当に感謝している。ほんとうに、感謝している(だからといって実家が居心地のいい場所かと言われると決してそうではない、この内容を書くにはもう少し時間が必要)。
ただ、わたしの家は平均からみると豊かじゃなかったみたい。世間の皆さまはそんなに豊かな暮らしをしていたなんて知らなかった(大学に来て、その経済格差にびっくり仰天したのでした……)。こういう生活に慣れていたので(それはそれで恵まれていると思う。もっともっともっと厳しい生活を強いられている人が大勢いることは確か)。これまでのわたしの人生、ほんとうに小さい頃から「格差を見つめる」という言葉で表現できそう。紆余曲折あって今の社会学を選んだけれど、この方向に進むことを運命づけられていたのでは?と思わなくもない。
この話思ったよりまとまらなかった。わたしの中でもごちゃごちゃしていて、少しずつ整理していきたいんだけど、あまりにも複雑でパーソナルで、ひとりで抱えるには重すぎて、でも全てをオープンにすることはできなくて(プライバシーという点でもそうだし、自分の心の負担という点でもそうだし)、フィクションの形で表現することで少しずつ解体している最中(現在挑戦中。がんばりたい)。
もうちょっと深くゆっくり考えよう。ただただ、この給付をめぐってたくさんたくさん差別発言を見てしまったのでキレた、という記録でした。悔しい。明日も授業がんばろう、社会科ってこういうことに立ち向かう力を持っているはず。
9/7日記 足踏みしたり突き進んだり
9/7 水曜日
マリフォーの一件
まずは、マリフォーシールの件について報告するね。
集中講義最終日、結局、、、
声を掛けられなかった……というかどこにいるのか分からなかった……。
次いつ会えるか分からないから、必死で探せばよかったんだけど、もうこの3日間1日3・4時間しか寝ていなくてとにかく眠かったし、グループワークとか課題が多すぎてそれどころじゃなかった(これは言い訳)。
最後の課題を提出して、顔を上げたら、あのスマホを持ってる人はもう教室にいなかった……。
こんなことばっかりね。
早起きせずギリギリに学校に行くから……夜更かしするから……こんなことになるんでないの……。
在学中にまた会えるかな。教職の授業を取っている限り会えるかな(しかしもう教職の授業をほとんど取り切ってしまったので、会えない可能性が高い。今回の集中講義は2年生ばっかりだったし)。わたしとあの人がマリフォーLUSHのシールを貼っている限り、お互いに気づけるはず。いつか、教職とマリフォーシール以外のことを知ってみたい。
それまで、この真っ赤なハートのシールを貼り続ける。もしもう一度会えたとしても、貼り続ける。この3日間、わたしたちは連帯していた。そしてこれまでも連帯していたし、明日からも連帯しつづける。その事実がこんなにもうれしく、こんなにも心強い。これはわたしたちの旗印。
まあわたしはヘタレすぎたな。それだけは確か。
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透明な膜を隔てながら
李琴峰さん「透明な膜を隔てながら」読み切りました~~~~~!楽しかった。
李さんの小説は「ポラリスが降り注ぐ夜」と「独り舞」は読んだことがあるんだけど、エッセイはほとんど読んだことがなくて、すごく楽しみにしていた。
李さんを知ったのは芥川賞受賞の記念スピーチの報道なんだけど(の割に「彼岸花が咲く島」は読んでない……。)、あのスピーチ全文を読んで、ぼろぼろ泣いてしまったのがきっかけだった。こんなにも同じようなことを思って生きてきた人がいるのか、と震えたし、その後読んだ小説も震えながら読んだ。勿論わたしは外国で暮らしたことはないし、母語で読み書き話す日本人だけれど、世界への眼差しがこんなにも似ている。こんな人が同じ時代に同じ国で生き、物語り続けている世界なら、もうちょっと何とかやっていきたいと思う。
そういう作家に出会うことが個人的に増えてきて嬉しい。情勢を知ったり読書量が増えたりして自分のセンサーが敏感になったかな? もっと感度を上げていきたいな。似た作家ばっかり読むのはどうなん、という意見も分かるんだけど、わたしの倫理観に合致しない作品は、読んでも傷つくばかりだから読みたくない。現実世界で傷ついた心を癒したり守ったりするための読書なのに、自分から傷つきに行きたくはないのよ。
「透明な膜を隔てながら」、また別で感想書こうと思う。
次:三木那由他さん「言葉の展望台」を読み始めました。こちらもよさそうです。
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あちらこちらぼくら
楽しみにしていた「あちらこちらぼくら」が届いたので全巻読んだ。今日めちゃくちゃ読んでるね。
これも本当にいい。描写が細かくていい。感情表現が細かい物語が好きなのかもしれない。
個人情報明かしすぎかな?と思わなくもないんだけど、わたしは園木が通った大学に今現在通っているわけでして……。そして学芸員資格取得を目指しているわけでして……。そういう目線で読むと、本当に個人的な解像度が高く、感情がめちゃくちゃになってしまった。
これから毎日が聖地巡礼。素晴らしいね。
あと真嶋が通うS大って、首都大学東京(いまは都立大学かな)よね? 実はここも見学に行ったことがあって、あ~でっかいアウトレットあったなあとか思い出していました。確かあれは高2の時だから、園木と真嶋が出会ったときと同じだね。うう。解像度。
園木の感情が分かりすぎて、自分を見透かされているみたいでびびった。なんなんだ。たなと先生は何者なんだ。進学校描写も絶妙にリアル。受験期、ブーストかかりだすと案外楽しくなってくるの分かる。
園木は○○先生とか、△△先生の博物館なんちゃら論系の授業受けたのかな、どんなプレゼンしたのかな、実習はどこへ行ったのか、学内実習は何したのかな。特別支援学校には行ったかな。発達キャンパスまで登るのだり~~って思ったことあったかな。
はじめて二次創作したい人の気持ちが分かった気がする。これまで一次創作ばかりで、二次創作は読み専だったんだけど……。なんか思いついたらやってみようかな。
あちらこちらぼくらも、ネタバレ込みで別でまとめよう。
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今日めちゃくちゃ長いな。それだけ良いものを沢山得られた日ということかな。明日からも学校がんばろう。